丹波の霧海特選路 五大山~愛宕山~鷹取山~五台山 西岩山(香良城)
安養寺~愛宕山~五大山~鷹取山~五台山~鴨内 2001.11.23
毘沙門堂~香良城(西岩山 Ca340m) 2004.04.09
毘沙門堂~香良城(西岩山)~小野寺山~五台山 2008.03.04
小野寺山より五大山-千丈寺山-黒井城を望む

校歌・故郷の山: ♪そそりたつ五台の山に…♪前山小学校
  ♪みどりすがしい五大山 遥かに仰ぐ…♪三輪小学校
ふるさと兵庫の50山:五台山 香良合戦と勝坂の伝承 浅山不動尊と剣豪:一伝斎
近畿の山城: 香良城 香良西砦 香良南砦 絹山北砦と高谷砦 絹山砦 タテガヘ城

五台山は香良登山口に岩滝寺(がんろうじ)や独鈷滝前の石段を 登れば岩窟に浅山不動尊があり不動明王が祀られている。不動明王は不動・降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉の五大明王の大将・煩悩を断ち切り行者を守り請願を満足させる仏様で五つの峰を
小野寺山山頂-五台山(右)から安全山・氷上盆地の霧海

五大明王に見立て徳尾の大原神社から入峰し親不知(金剛夜叉)・五台山(軍茶利)・鷹取山(不動明王)・五大山(降三世)に愛宕かクロイシ山(大威徳)を加え吼子尾山から見るクロイシ山は 実に雄々しく立派な山容で五峰としたいところ。天平の頃・聖武天皇の勅命を受け行基が中国山西省の五台山3058mに似た山を探して全国行脚し五台山と命名し(文殊菩薩が住む聖地として信仰を集める)たことに由来する神聖な山です。
五台山山頂から氷上盆地に消え行く霧海を見る

五大山白毫寺は(比叡山の慈覚大師が来錫してこれらの山々を巡る回峰行も行なわれ山岳宗教の軸ともなっていた。五大山の麓に白毫寺があり五台山山頂には近年になって文殊菩薩像が祀られた。この山稜で特筆すべきは石生に日本一低い分水嶺(水分れ)から北へ向う稜線の 西に加古川が瀬戸内海へ・東の竹田川は由良川を経て日本海に流れ出る。



霧海展望コース 安養寺~愛宕山~五大山~鷹取山~五台山~鴨内  H13.11.23

安養寺〜五大〜五台の縦走レポートは少ない。R175号から丹波の森街道(青垣・柏原線)県道7号線桟敷から安養寺へ向かう。五大〜五台の稜線の中でも特異な丸い山容が周辺の山や里からも目立つ愛宕山へ北由良・登山口の安養寺(AM7:20)から愛宕山に向う林道入口ゲートの留め金を外して道なりに進む。
愛宕の覗き岩から安全山・弘浪山

堰提の前で左手の斜面を登っていく杉林の中に山道が続き入口に注連縄を渡した石柱があり「愛宕山道」の標識もある。参道を少し登りはじめると足元すぐ左側の岩場に大きな鉱口がある。先で二手に分かれて掘り進められ中で又一つになっているよう?。戦時中のマンガン鉱発掘跡で坑口横の岩上に石仏が 一体あるが慰霊なのか愛宕社参道を示す不動や菩薩か確認していない。程なく藤の水分岐で左手下へ20m程で水場に出て是より10分程で西側に展望が拡がり始めると愛宕の覗き岩に着く。
安養寺からの愛宕山

目前に安全山・水山-竜-篠ヶ峰・弘浪山・白山・高見城山等西面から南への山々が見渡せる。一休みして登り始め愛宕社のお堂と少し高み岩場にある京都愛宕山遥拝所の中程に出てくる。愛宕山(570mAM8:20)の堂前には石燈籠があり寛保(1741-)の文字が…滅多に山行で記帳などしないが此処へ来ると下手な文字で何か書いてしまう。なんと翌日にはメール仲間の目に止って恥の上塗り。
京都府の弥山山や青葉山を望む

遥拝所からは樹木の影で見えないが眺望が効けば京都愛宕を始め多くの山の展望が楽しめるはず。高圧送電鉄塔の先の五大山迄は一投足・距離は短い岩場の急登。初めてならスリルと緊張の味わえるが要注意箇所。鉄塔を過ぎ五大山への登りで 振返れば西南面の山肌には紅葉と荒々しい白い露岩を見せる愛宕山が下方に拡がる霧海の上にあり贅沢な展望を楽しめる。 また愛宕山の険しさを安養寺から見上げた時同様に再認識させられる。
五大山より鷹取山~五台山

五大山山頂(569m)からはコースが三方向に分かれ直進し高圧線沿いに南へ向う亀の座~天王坂から霧山・左手の道標に導かれれば白毫寺
・中ほど左はヨコガワ峰-千丈寺山-黒井城へ向う。此れから向う鷹取山(氷上槍)は台形の五台山と愛宕山の丸みの間にあって一際鋭鋒天を突く風情から小野寺山・五台山へ続く稜線の起伏と霧海の雲上散歩を期待させワクワクする魅力を感じさせるが愛宕山へ引返し愛宕社裏からの激降り。鞍部から左の谷に向かい安養寺に降る踏跡もある。
岩滝寺

五台山への道は明確でルート説明は省略。登り返して稜線も緩やかになると藪っぽい場所もあるがテープ類も時々現われ踏み跡はハッキリしてくるが正規ルート!!ではないので引返したほうが無難。五台山を望む露岩部でほぼ行き止まり状態。植林帯の急斜面を降れば枝谷を経て独鈷滝へ降りられそう。枝尾根の先にも明瞭な杣道は左方向に降るが踏込はなく春日町寄りに進む。氷上槍鷹取山(4等3角点566m)に「大正6年建立・雷大御神」石標があり正面の樹木間から霧海に浮かぶ黒井城や妙高(高谷山)・三尾・多紀の山々が見える。
露岩を覗かせて起立する西岩山(香良城)と悠々とした五台山

三角点周辺が切開かれているだけの藪山は近年・エルム市島からハイキングコースが整備され素晴らしいベンチ付き展望台に変貌している。愛宕山に続き鷹取からも激下り。鞍部から岩瀧寺側へは荒れた谷筋沿いに奥なめり・口なめり・一の谷を経て独鈷滝から五台山コース牛の首・藤の目に降りてくるが谷周辺は松茸山でシーズン中は入山禁止。野寺山から大きな案内板が示す鷹取・愛宕へハイカーなら「こんな所を通るの?」と思うようなルートで小野寺山(五台山最高所645m)の展望台です。
西岩山(香良城本丸)東から岩瀧寺背後の岩峰と鷹取山

円形の方位山名案内磐もあり多紀アルプスから松尾~白髪・大江山・姫髪山・三岳山・烏ヶ岳-鬼ヶ城・篠ヶ峰~竜ヶ峰・岩屋山・粟鹿山から 千ヶ峰…へ見飽きることない眺望に思わぬ長居をしてしまうが五台山へと散策道を進む。左手からは独鈷滝からのメインルート・右手からは鴨坂ルートの十字路を過ぎて殊菩薩像が祀られる五台山(2等三角点 655m)に着く。氷上方面の霧は晴れるが霧山城近くの甲賀山-明治山はまだ霧のなか。是より鴨内峠への道は峠へ下る山道と別れ 正面の稜線通し今年春みぞれ混じりの雨で挫折した井階山への逆縦走です。
岩滝寺の山門

取付き始めは不明瞭な道もやがて明瞭になり境界ポールも現われるが段々と稜線から外れ谷に向って下り見覚えルートのようだが少し不安・引返しながら目ぼしいピークに取付く尾根に見当つけて 激降りして隣の尾根に山道が現れルートを変えたのが大誤算。正解の尾根を外し枝尾根を伝いに鴨内の林道に出でしまう。五台山-鴨内峠経由のほうがスッキリした縦走コースだ。伊佐口から加和良神社を抜けて「香良の独鈷滝」へ向う車道の終点は五台山と鷹取山・その前方には滝や浅山不動尊付近の露岩も荒々しい山肌を見せる五台山登山口。新しく天王坂方面に向うのでしょうか!!広域農道に出て山の鞍部を目指す。
浅山不動尊

鞍部を越えれば出発地点の安養寺へ出られるはず。愛宕へ向う際に確認した林道へ出られればと見当つけてのルート選定だが古い峠道をとり(PM1:05)峠には磨耗して姿も良く分からない小さな石仏があった。倒木等で荒れているが峠道はハッキリしていたが数10mで忽然と道はなくなり何かの開墾地のような湿地帯に出てきた。雑草が倒された獣道を伝って此処を抜けると安養寺近くの民家も見えてきて寺より随分南側の河川工事現場の架け替えの為に外されてしまった橋の前に出てきた(PM1:30)。
=====================================================================
香良:独鈷の滝と岩瀧寺の不動尊・剣豪:浅山一伝斎

五台山の登山口にある岩滝寺(真言宗大覚寺派の尼寺で嵯峨天皇の命により弘仁年間(809ー23)弘法大師により開創された。山門を潜り茅葺の本堂から春秋の草花を愛でて落差約18m独鈷の滝に向います。弘法大師が大蛇を退治するのに滝壷に独鈷を投げ入れたとの伝説があり剣豪浅山(三五郎)一伝斎(三五郎は幼名で後に内蔵助…諱(いみな)を重晨(しげとし)と云う)がこの滝で修行し浅山一伝流兵法を編み出した所でもあり説明板も岩瀧寺の参道途中に建てられていた。一伝斉は群馬県多野郡上野村の人といい慶長15年(1610)-貞享4年(1687)死去:享年78歳】が此の滝で修行し一伝流兵法を編み出した根源の地。現在は県道7号線に香良「独古の滝→」の大きな案内標識と石灯籠(常夜灯)が建ち隣に石碑が立てられている(移されたか新設かは?)。三代将軍家光が上覧の寛永御前試合【寛永9年か寛永11年?なのかは不詳】に勝って剣名を轟かせてた。
独鈷の滝

北は仙台藩・南は薩摩藩に至るまで流派は全国20余藩に伝承される浅山一伝流は元は剣術・居合・柔術を中心に小太刀・鎗・棒・鎌・忍術・捕手・手裏剣等を総合して「浅山一傳流体術」と唱えたと云う。明治時代前期に警視庁が制定した警視流木太刀・警視流立居合の型に採用され今も警視庁流の中に受け継がれている浅山一伝流。浅山一伝斎壁書【1:武芸は其身に慎1:心掛けは手柄の基1:心遣いは分別のイロハ 1:堪忍は忠孝の下地1:短気は未練の相1:がさつは臆病の花】座右の銘に如何…滝の前の石段を登ると暫らくは藤ノ目渓谷沿いに進む五台山への道、左手には大岩を背にした浅山不動尊がある。堂の裏は奥行15m程・高さ12~3mの洞窟の中に不動尊が祀られている。
不二の滝


岩瀧寺は1200年の歴史を断崖・奇岩・幽谷の山中に伝える。弘仁年間(810-24)嵯峨天皇が住吉明神の霊夢により此の地に弘法大師を巡錫させ伽藍・坊舎を建立整備させられたと伝えられます。寛永年代初め由良荘の別所豊後守吉治が娘の眼病平癒を祈願し香良の浅山不動尊と共に活眼不動尊に開眼堂…等を勧進したと云われる。天正年間の兵火により全山焼失したといわれる。関が原合戦以降(慶長5年(1600)丹波の領主となった別所豊後守によって再興され宝暦5年(1755)には三田藩主・九鬼長門守隆邑(たかむろ)の発願により護摩堂が再興、さらに嘉永6年(1853)三田藩主・九鬼丹後守精隆(きよたか)?や柏原藩主・織田出雲守等によって当山興隆に努められたといわれます。


香良城 香良西砦 香良南砦 絹山北砦と高谷砦 絹山砦
香良合戦と[勝坂]の伝承タテガヘ城

香良城 西岩山 Ca340m  氷上町香良【登山レポートに含めます】
毘沙門堂-香良城-林道-小野寺山-五台山-独鈷滝 2008.03.04
175号線から丹波の森街道(青垣・柏原線)県道7号「桟敷」交差点を右折すると黒井城のある春日町と香良城のある氷上町を結ぶ天王峠に向かう。香良城の存在さえ地元では知る人も少ない山城だが攻めるに難く・籠城するにも厳しい四方懸崖岩山の城砦が香良合戦の舞台になったとは思えない。
西岩山(香良城)取付点:毘沙門堂参道

源平・南北朝期以来繰り返されてきた丹波の合戦のなかでも最も激烈を極めた香良合戦[勝坂]の伝承通説では香良に集結していた細川氏綱方の芦田・足立氏一族と三好長慶勢の松永・内藤(京都八木城)連合軍に細川晴元方の赤井時家等赤井・荻野氏一族に波多野氏が助力?(詳細不知…)細川家内紛による代理戦争とされる赤井・荻野勢の急襲に三好長慶勢は敗走したか?参軍が間に合わなかったのか?敵・味方共に多数の戦死者を出しながら勝敗を決していない合戦に芦田・足立氏一族は悉く戦死、其の後:荻野・赤井氏の台頭に芦田・足立氏は
毘沙門堂と極楽坊跡

その傘下に入り氷上郡内を直政一党が支配する。ある資料には天正年中?とあるが・足立新九郎が石火矢を打ち掛け…たが?落城とあり不動滝より筧にて取水した?とも。城域三ノ丸の西端最低部の西之丸陣小屋から?の尾根山麓(城ヶ越)に陣していた。 この合戦に荻野直政は足立新九郎に切立てられ重傷を負い危うきところ坂ノ兵衛が負い北由良へ勝坂を越え春日領内に逃げ帰ったと…。
東郭(一ノ丸):露岩の切岸と西面の帯曲輪

桟敷交差点を過ぎると左手に目につく「香良・独鈷の滝」大看板と右手前方には五台山の悠々たる台形の山容・天を刺す尖峰鷹取山を背にし香良病院背後には急峻な露岩の鎧を身に纏い立ちはだかる五台山前衛峰の岩山が迫る。この岩峰尾根の山頂部一帯には城主・築城目的や
香良城東郭:土塁を挟む二重堀切?(山道になっているが…)

時期等の城史は不明だが室町時代中期・応永年間以前(1394~)小室城主・芦田氏隆盛期の砦と思える香良城があった。駐車場から岩瀧寺と独鈷の滝・浅山不動尊への参道を進むと左手に毘沙門天の赤い幟や県の遺跡分布地図にも記載されていない古蹟極楽坊跡 (極楽坊谷古跡)/毘沙門天洞の看板を見て柵で囲われた毘沙門天へ参道を登る。周辺には数多くの堂宇・僧坊跡の石垣や石積みを残す削平地があり西側隅の大岩の前に毘沙門堂の祠があり
三ノ郭より望む香良城東郭(一ノ丸)

左右の隙間から毘沙門洞岩室内に入れる。西岩山(香良城)Ca340mと西下方にあるCa320mの双峰を繋ぐ瘠せ尾根上に小規模な削平地を残し自然地形か僅かに土塁の高まりを感じさせる場所もあるが 堀切・竪堀・曲輪の切岸さえ不要な程峻険な岩山・露岩の断崖上に築かれこれ以上望め得ない要害。西方2Kmには丹波市最北端の宿場町佐治から遠阪峠へ向う山陰街道を望むが
香良城からの展望(正面に安全山や水山~カヤマチ)

要衝監視には少し遠い小野寺山と鷹取山の間を越えて市島町乙河内・美和へ抜ける間道はあるが嶮しい山上に監視の砦を築く重要性が見出せないが果たして。香良城(西岩山)の表示があり西の岩山山頂に城があったと云い隠し谷・城ヶ腰等の名が残る。城域は岩壁が取り囲む文字通り鉄壁の構え。以前に駐車場の小祠:鳥居裏手のルンゼ詰め・殆ど岩登り(グレード2級程度)の西岩壁をすり抜け両岸が切落ちた細い尾根に登り着く。
東郭の断崖から西郭(三ノ丸)南西下方に四ノ丸が!!

狭いが平坦地があり中央に見張の櫓跡?か土壇の台地が深い谷を挟み東正面には起立する露岩に鎧を纏った香良城主郭の西岩山を間近に望む。「丹波志」に陣小屋跡と云い見張り小屋でもあったものか?。尾根端から見下ろしても何処をどの様に登ってきたのか思い出せない程。直ぐ東150m程が主曲輪だが其の間・三ノ丸にかけて城域を東西に分ける鞍部岩場を通過する。
香良城東郭(主郭?)東面障壁岩の切岸

此処に浅い堀切状をみるが 急峻な東郭(一ノ丸)切岸下部(山腹)を捲いて西尾根(西郭)へ通じる古い杣道が溝状に岩間に斜上してくる。此処から二ノ丸の細長い削平地(8X30m程)に入ると平坦地形の尾根筋両側に帯曲輪が付く。帯曲輪西端からは北西下方へ急斜面の枝尾根が延び下降口に一条の竪堀が落ちる。二ノ丸の尾根側は東端から主郭側へは露岩帯の尾根筋を廻り込む細い通路は土橋にも思える。15mX30m程の不整地で削平も粗く斜傾した本丸に着く。
香良城東郭(主郭?)北切岸の土止め石

山頂に石垣の一部が残っているというがわからない。曲輪西端部の切岸に曲輪を広く保つ為の土止め石積はある。石積が切岸を立てる防備補強でないことは 斜面6-7m先の下部に岩棚があるが其の先は10数mの断崖なので不要でしょう。東北の尾根続き…といっても此方も急斜面。毘沙門堂から正面のルンゼ状を尾根筋に登り着けば 城跡にダイレクトに行けそうだが上部になるほど急斜・浮石も多く危険です。
香良城西郭(二ノ丸)西北角に落とす竪堀

踏み跡の続く右手拠り(東側)の浅い谷のガレ場少し上方まで堂宇跡らしい石積や狭い平坦地が続く。此処を登ってくると五台山からの主尾根続き東北の尾根に登り着く。尾根筋北側を伊佐口(香良病院西側の谷川沿い入口)へ下る広い(3-4m幅)の林道が此処に通じでいる。2014年夏の豪雨による土砂災害では毘沙門堂からの登路を断たれ 林道も簡易舗装のコンクリート道さえ地盤が削られ崩され・捲りあがり斜面の地盤が林道上にズレ落ちて 道路端を残して埋もれているところもある。
ニノ丸の長い曲輪:左右に帯曲輪が付く

林道が丘陵部を捲き込んで大きく五台山側へ向かう峠部から右手尾根筋に移るところから香良城域に入る。此処に規模の大きな蛇行する竪堀状を見るが林道が通じる以前からよく踏み込まれた古い山道。続いて二重堀切状を越えるが此処も外側は山道らしく下方で先程の竪堀状の溝下方に移ってゆく。大土塁状に山の神の標示板があることからも山仕事道。田圃へ供給する水源地帯でもあり更に其の田の神=山の神が祀られていても
西郭南端三ノ丸の南西下にある曲輪(小屋ノ尾<仮>曲輪)

不自然ではない。二つの山道の傍・中間部に山の神が祀られていることから林道と思えるが外側は山腹を捲く道筋を堀切に繋げて利用したものか。内側の堀切からは直ぐ香良城最高所の郭東面に岩盤を覗かせる10数mの障壁が立ちはだかる。南寄に巻き上がるのが無難だが北正面を攀じ上る。曲輪端に土止め石積を見る。土止めの石列は西尾根側の曲輪群にも見るが竪堀を二条ばかり(一本は疑わしいが!?)北面にみる。
西郭:ニノ丸稜上の長い曲輪:左右は帯曲輪

最高地点西岩山(Ca340m)山頂が主郭と思っていたが遺構や規模からは寧ろ:降ってゆく西尾根の二ノ丸から四ノ丸曲輪から成る西曲輪群のうち尾根筋両サイドに帯曲輪を備える二ノ丸が主郭かとさえ思える。最高所の東峰から西峰の曲輪群へ降り始める露岩部と岩稜部端の間が堀切状を見せる個所もあるがいずれも山腹を捲いてくる山道跡か?。これ程の峻嶮な要害地にあって尾根を遮断することもない堀切が二つの城域を分ける意味合いも不明?なうえ岩を穿ってまで苦労して堀切る必要性も感じられない。
香良城ニノ丸西南端:空堀状から尾根筋の二ノ丸と東側帯曲輪

香良城は四郭群で構成されているようだが実は西尾根最西端の曲輪から 20m程・露岩部の急斜面南下部に長さ20mx幅5-8mのⅣ郭は,削平も良好で綺麗な平坦曲輪があり土塁状・土止め石列がある。観光駐車場側から上部に延びる切り立つ岩場を伝い登り切りやっと両手が空き平場の尾根に登り着いたところが丹波志にいう小屋の尾か!?。一ノ丸(最高地点にある東郭)側にも一段帯曲輪が延び西北部を占める主曲輪との段差には露岩(自然)石列が切岸状に並んでいる。尾根に続く北東側の急斜面を斜めにカットする踏み跡を辿り二重堀切の鞍部に降りる。
香良城主郭と東下の腰曲輪

其の先に上ってきた山道が堀底道状になって北側を伊佐口に向って下っていく。作業林道は伊佐口からの谷を詰めて香良城域の北の肩を東に廻りこんで…広く削られた林道が平行して鞍部へ登ってくる尾根先を見るとブルー・シートが見え土橋状の細い尾根側に 「山ノ神」に標識が立つ側から延びてきている林道の間には深く大きな「くの字状」の巨大な横掘のような谷となっている。「小屋の尾の隠し谷」とは此処の事だろうか?。雪の林道向かいから 尾根をトレースすれば五台山へ通じるが新しく敷設工事されている林道は何処まで延びていくのか?林道終点まで雪道を進んでみる。深い雪に足をとられ・雪融けでぬかるむ道に難渋しながら進む。
南端に石塁上櫓台をもつ西郭(三ノ丸)が東郭より主郭っぽい!!

途中で五台山への一般登山道と出会う筈なのに林道で寸断された登山道に目印テープ類さえない。岩瀧寺・独鈷滝から五台山を目指すなら殆どの登山者を対象の標識もいらない。林道からも直ぐ脇にある「一の岩」が目印になってもいる。雪道に気をとられて標識もなく・様変わりして周囲にまったく気付かず林道から鷹取山を望みながら通り過ぎてしまう。大きく南へ廻り込んで小野寺山-鷹取山間の稜線から派生する枝尾根の484m峰の山腹を廻る、更に一つ東の枝尾根付近で行止りとなる。其処から・ひたすら登り一辺倒の急峻な尾根に取付き雪の残る斜面に向う。
城域東端:林道に接する大竪堀!!?は旧山道!

稜上が明るくなってくると露岩が現れ其れを越して尾根に出たところが小野寺山山頂30m程手前・鷹取山側に下るガレた登山道の側だった。雪上の足跡は2~3人程度と少なく鷹取山縦走路にはなく 小野寺山で折り返して五台山を往復しているだけ。私も五台山まで行き展望台から西岩山を望み登山道を独鈷滝へと引き返す途中で工事中林道に出て初めて往時に気付かず行き過ぎた箇所が判った。【H26年豪雨により香良病院西入口からの林道入口も第二堰堤?付近から 林道・谷筋は壊滅・水平道上も斜面崩壊による土砂が車道を覆う。多大な被害状況から復旧は未定?。堰堤工事は始まっているが…】

香良西砦 (小屋山城・円悟寺裏砦:仮称)
 xx山 Ca285m 氷上町香良
香良合戦と[勝坂]の伝承

香良合戦:明智光秀の「黒井城攻略」以前:氷上郡(丹波市)の戦国史に残る最大規模で熾烈な香良合戦が弘治元年(1555)勃発し氷上町伊佐口・香良から絹山地区一帯に展開された。通説では細川氏綱方の芦田氏・足立氏連合に三好長慶・松永久秀・丹波守護代:松永長頼(内藤宗勝)が細川晴元方の赤井時家等赤井・荻野氏一族に波多野氏が
香良城(左)と鷹取山遠望

助力・介入したか?詳細は不知だが…細川家内紛による代理戦争とされる。香良合戦は香良住吉神社の南付近・地蔵ヶ端で双方が激突した戦いで荻野・赤井一族の台頭に危機感を募らせた足立・芦田の連合軍が丹波守護代:八木城の内藤氏・京都で実権を握る松永長頼の応援を得て戦いに臨んだ…と。荻野直正が叔父荻野秋清を刺殺し悪右衛門直正を名乗り黒井城主となったのが天文23年。源平・南北朝期以来繰り返されてきた丹波の戦国史でも最も激烈を極めた香良合戦の勃発は翌弘治元年(1555)のこと。 荻野家家臣団にとっては全体に周知されず上層部で勝手に決められた赤井家からの才丸(荻野直正)養子縁組のこと・
城域の東端

秘密保持とはいえ直正の城主謀殺に対し家臣団の多くが黙認していたこと。赤井家にとっても赤井姓に復姓せず黒井城を本拠に氷上郡全域を束ねる領主となった荻野直正に対しては赤井・荻野家の其れぞれに直正に対する妬み/不満/遺恨を募らせる分子もいた筈?。 芦田・荻野・赤井の三家は同族で其の祖井上九郎家光(家満)が信濃国佐久郡蘆田村から保元3年(1158)丹波東芦田に移り芦田姓を名乗り…後裔の為家が建保3年(1215)赤井九郎が 氷上町新郷に移り赤井姓を名乗り赤井家の祖となったとされる説もある。
「勝坂」登山口の案内板

丹波の中世史を語る城砦や城主・城史等の資料・情報は「丹波志」や丹波戦国史(昭和48年刊)・旧氷上郡教育委員会「埋蔵文化財分布調査報告書」に頼ることとなる。赤井勢・荻野直正勢力に対し氷上町側の沼や鴨内・香良にまで領地をもつ足立氏の岩本城の権太兵衛基則(足立氏本拠山垣城)・沼城(芦田上野介光遠)も庶流芦田氏本拠小室城がある。香良に集結した大勢力の三好長慶勢の松永・内藤(京都八木城)連合軍に足立・芦田氏勢が合流?した動向・状況等は未調査不詳。まして此処に直正に抗する赤井・荻野家勢の一部?が合戦前夜に 示し合わせて?加担する構図は不明なのだが三好長慶軍が氷上の地まで侵攻し赤井勢に追返される程の戦いがあったのか?
「勝坂」峠への緩やかな上り坂

また赤井勢に助力したとされる八上波多野氏・まして西波多野?霧山城波多野宗高は実在の人物なのか?霧山城が既に存在していたのかさえ疑問におもえる。「勝坂」の伝承香良口・地蔵ヶ端(加和良神社付近)での足立氏・芦田氏との戦いで 足立新九郎に切り立てられ深手を負った直正を足軽”坂ノ兵衛”が背負い峠を越え逃れた伝承がある。勝坂は案内板が設置され峠までコースが整備された。絹山地区南東端山麓(工場の奥)に今は枯れた池跡?付近から北油良へ越える勝坂を、
「勝坂」と峠の石仏

負傷し黒井城へ戻る直正に「此処は何処ぞ!」と尋ねられ咄嗟の機転で[絹山から北油良へ越える勝坂と申します]との応えに「戦に勝坂とは縁起が良いのう」…と油良坂付近まで退いたとき直正は腰の太刀「鴻の巣丸」を今回の功績に坂ノ兵衛に与えた。「鴻の巣丸」は後:兵衛の子孫により東芦田の胎蔵寺に奉納(丹波志)されていたが此の事を伝え聞いた赤井氏後裔の懇望に「鴻の巣丸」は再び赤井家に戻されたと云う。何れが勝ったとも云えない熾烈苛烈を極めた合戦に赤井信家は戦死・赤井五郎家清(高見城主で直正の兄)は深手を負い其の傷の悪化で2年後に死去。芦田光遠は此の合戦に討死足立氏一族のなかでも基則だけが赤井・荻野方に属さず遺恨もあってか?明智光秀方に付き
臨済山円悟寺(臨済宗)

本能寺の変にも参戦している。家清の死により直正は赤井一族の惣領ともなるが家清の一子忠家を庇護し赤井氏家長として立たせた様。家清の妻は八上波多野晴通の娘・其の子が忠家であり後:家清の妻であった寡婦を直正は妻として迎えている。明智光秀の「黒井城攻略」第一次合戦時の波多野氏の行動は「赤井の呼び込み軍法」に深く関わっている様です…ネ。
===========================================================
香良西砦(小屋山城・円悟寺裏砦 仮称)

芦田氏は赤井氏の遠祖・荻野氏も赤井家から出た荻野朝忠が祖の一族!?。後述の鴨内には芦田神社や足立姓墓所、香良谷にも芦田姓や足立氏居館蹟があり氏神社?(足立氏定紋の五本骨扇ではなく二引両紋!!)があり近くに領主足立氏(足立権之丞xxと織部妙xx)の比翼塚が祀られている。
香良西砦 主曲輪南4-5mの切岸を立てる

青垣町内に領地をもつ芦田氏・足立氏は共に丹波市内最古参の領主だが領国境界には互いに大きな紛争もなかった。荻野・赤井・芦田の一族!?の紛争には反直正方についた赤井一族の芦田氏に足立氏が助力し此処に集結!。其れを知った直正方勢力は牛河内の峠を越え北油良の峠から香良へ侵攻し 此処に合戦となった!?。伝承の「芦田・足立氏には細川氏綱方と荻野・赤井(細川晴元方)」の管領細川家内紛の代理戦争に合わせたような構図も窺われる!?。
香良西砦主曲輪

香良への侵攻ルートには鴨阪から鴨内へ間道を抜け鴨内城裾から伊佐口へ越えれば鴨内谷川を渉らずに合戦主戦場となった陣道が原・加和良神社に出る。直正方勢力を利用すれば背後から急襲しての挟み撃ち秋清方なら佐治川や県道沿いの 街道筋を監視の目に晒されることなく街道を避け徒渉も避け香良に出る救援ルート、直正方には南北から挟み撃ちの強力パンチ。阪を分ける南丘陵を越えると 内河内・戸坂…直正に刺殺された荻野秋清の溜堀城がある。丹波志古城之部(香良村ノ奥)に…不動の奥岩山の上に…とあるのが 香良城だが尾根続き「西の山より大筒にて…」とある小屋の尾にある陣小屋!?が
主曲輪北尾根側に切岸3-4m・土塁伝いに堀切土橋

今回探索の香良西砦(小屋山城・円悟寺裏砦<仮称>)。足立氏?の籠城する香良城での籠城戦も伝わるが?赤井氏が香良城を攻撃したようだが?年代や契機の記録を知らない。香良合戦主戦場の陣道ヶ原(加和良神社付近まで香良城が陣城としてなら少し距離があり 香良合戦とは直接的な関連はなかったと考える?。加和良神社が”カワラ→コウラ”<香良>の語源か?此の辺りまでは旧佐治川・南面一帯[地蔵ヶ鼻]・[陣道ヶ原]と呼ばれたところ。加和良神社裏手:住吉神社の鎮守の森「下山」に合戦による双方死者への鎮魂・無縁菩提の首塚だろうか!?。
香良西砦北尾根曲輪群北末端の堀切

五輪塔・宝篋印塔残欠と六地蔵尊!?が並ぶ尾根先端が「地蔵ヶ鼻か…?」緩斜な幅広い丘陵尾根が北東へ延び上がり頂部Ca285m)に城砦遺構の広い平坦段(主曲輪)がある。香良城に向かって大筒を放った陣小屋(鉄砲山なり鉄砲丸)が此処か?。香良合戦陣城として適地と思えるが 山頂から西南へ高度を落とす緩斜な尾根筋に土塁平坦地塹壕等の防備・攻撃の備え等を見ない。曲輪へは南側に幅狭い棚状(犬走‼?)から上り土塁を主曲輪に入るが北尾根側の切岸も高い!!。
主曲輪南西角に短い竪堀状と上り土塁

主郭北切岸からは土橋付き明確な堀切がある。北方の鞍部に至るまでの尾根筋に不整地な曲輪群を挟んで 末端にも堀切があり直ぐ尾根筋下の鞍部は円悟寺から登路が通じていたものか?。北に下れば伊佐口からの谷筋(裏間道?)だが更に北側丘陵部を越えれば鴨内集落に降りる。山際沿いから比高80m程に鴨内城(隠ヶ谷城 仮称)がある。香良西砦(小屋山城・円悟寺裏砦)へは臨済山円悟寺(臨済宗)【推古天皇 在位592ー628)の8年(600年)政務を司っていた聖徳太子による開基で
主曲輪よりの西尾根から合戦場の香良口を望む

丹波市最古の名刹の一と伝えられる】の裏手から急斜面を廻り込むようにして到達したが遺構は香良集落を望み・香和良神社へ下る南西尾根上に見当たらない。小屋の尾に在る香良西砦は香良の臨戦時に陣城として急造されたと思えるが小屋山城の別名がある。一印谷城(小屋山城)(篠山・丹南町)ともに頂部曲輪を除いて眺望のない緩斜な下り尾根続き・浅い堀切り一本が城域を境し砦機能の監視用なく・防備も弱い!?。領内の老若男女が戦乱時の避難場所として入った「逃げの城」でもあったと!!。
西尾根末端(地蔵ヶ鼻?)に祀られている地蔵尊と五輪塔は首塚?

丹波志古城之部(香良村ノ奥)の最終行?「…小屋尾の北に…隠レ谷」とあり城砦ありとまでは記されていないが幅広く緩斜な下降路が加和良神社裏へ延びる西尾根鴨内集落最奥に位置し、反対の山側に低土塁を築き鴨阪から鴨内峠越えの侵攻に備えているよう?。鴨阪の余田氏は弓・槍術に優れた武士団だが 赤井・荻野一族との関わりは不知・天正2年(1574)直正の侵攻に敗れ軍門に下り光秀との黒井城攻では龍ヶ鼻砦に籠城しているが香良合戦時・どちらに付いて助力・救援したか?しなかったかまでは不詳。
足立氏居館前に氏神社?(二引両紋‼)

香良谷とは加古川を挟んで西に細川勝元の寺領円通寺がある。丘陵上には市内に例を見ない遺構が残るが円通寺背後の井中城(仮称)には帯曲輪から短いが畝条竪堀10条余り!。何れも仮称の円通寺砦・井中城がある。北方への尾根続きには沼城があり、ここを本陣とした城砦群が香良合戦絡みで稼働していれば 芦田方VS赤井方による代理戦争であった可能性も大?

香良南砦(仮称)
 xx山 Ca195m  氷上町香良

香良合戦には細川氏綱方の芦田氏・足立氏連合に三好長慶・松永久秀・丹波守護代:松永長頼(内藤宗勝) ら三好勢力の加担がなくとも香良谷の「地の利」を熟知していると思える芦田・足立氏勢も大軍!?なので赤井・荻野勢にとっては北由良の陣から「勝坂」を越え 絹山まで入っておれば香良地区の奥地は伏流で水量の殆どない香良谷川沿いを無理なく?侵入可能。
香良谷川から:正面に香良南砦(仮称)

奇襲戦法が功を奏せば勝因はあると荻野直正ら赤井家一族は黒井城下を発ち牛河内から由良坂…峠を越え北油良に入るが南由良-桟敷から足立氏・芦田氏等連合軍が布陣し待構える香良谷の入口・伊佐口付近は香良谷川の伏流が溢れ出し一面沼田濠?と化し安易に侵入はできない。赤井・荻野氏一族は北由良から最奥の安養寺一帯に布陣し「勝坂」から絹山側に
香良南砦から井階山城塞群(左奥)・正面右手に香良西砦

侵攻し合戦前夜の臨戦”急備え”のベースを築いたのが古墳群を利用した高坂砦と芦田・足立連合軍が布陣する伊佐口の陣道ヶ原に対峙し香良谷入口にも直近の前線基地絹山北砦と思える。通説では!…芦田・足立氏からは赤井一族を討って欲しいとの要請に三好方勢力の丹波守護代:松永長頼(内藤宗勝)らが八上城波多野氏攻略に失敗?しているだけに…
小曲輪群上部の緩斜面に中央曲輪?

赤井一族を倒す好機到来と先に大軍で香良谷に着陣し?…芦田・足立軍が此処に合流したとも!?。合戦前年:黒井城主:荻野秋清を刺殺した直正が城主となったが…黒井城主となっても荻野姓を元の赤井姓に改姓しない事…等々赤井・荻野家の一部には遺恨を持つ者もあって 結束力の欠く一面もあったのでは?
香良西砦堀切

主戦場となった加香良神社南の地蔵ヶ端(陣道ヶ原)で伊佐口の井階山城塞群(仮称)・絹山の絹山北砦と高谷砦(仮称)・香良の香良西砦(仮称)を併せて参考にしてください。絹山北砦(仮称)の後方は現:地区住宅地までの間・広い平坦部があり二つの単郭砦には出撃口ともなる二本の間道(堀底道)が香良側に通じている。東の山裾沿いに進めば正面に香良西城に正対する位置の丘陵先端部に香良南砦(仮称)がある。芦田・足立勢力は伊佐口から香良にかけて香良谷川右岸(北)に布陣しているが
山頂付近曲輪群:硅石(セメントや陶土材料となる)露天採掘跡が散在する

敵陣深く入り込んで築いた臨戦:急備えの香良南砦も高谷砦・絹山北砦ともに赤井・荻野勢の香良合戦に於ける”急備え”の城砦遺構は僅かに斜面を切出しての小曲輪群山頂途中・山麓を望む平坦地に主曲輪を置いたものか浅い堀切状も見る。城域の彼方此方には近世になって需要が高まった硅石露天採掘の溝があり殊に山上部曲輪は崩壊穴により旧態不明。

絹山北砦と高谷砦 (仮称)
 絹山北砦130-145m 高谷砦 Ca180m 氷上町絹山

奥丹波の氷上郡(現:丹波市)に於いて弘治元年(1555)勃発し三地区(伊佐口・香良・絹山)一帯が戦場となって展開された香良合戦については香良地区に最近まで香良城だけが知られていたので香良城を主体に考察されてきたよう?だが 伊佐口に井階山城塞群(仮称)があり主戦場となった陣道ヶ原(加和良神社ー伊佐口公民館南付近!)から井階山稜上の城塞群を巡ってきた。
(絹山北砦)曲輪から主戦場の陣道ヶ原を望む

香良合戦について地元伊佐口地区では城砦があることも 合戦があったことも御存知ない?というより関心を寄せる人は殆どいないが香良地区に香良城を知る人は多い。ただ香良西砦 を知る人はまずいないが存在は丹波志古城之部(香良村ノ奥)の最終行?に「…小屋尾の北に隠レ谷…」とあり「小屋尾」が香良西砦・隠レ谷…は伊佐口を北へ越えた鴨内に発見した鴨内城(隠ガ谷城 仮称)に該当する!!。
絹山北砦(西)の主曲輪

いずれにしても足立氏との関連には関心があり問いかけ・話題に応えてくれる人は多い。絹山地区には明智光秀のドラマ化にあやかる!?歴史道として勝坂が地元で整備され案内説明板も設置されている。光秀の「丹波攻略戦」だけを捉えれば ドラマ化では最重要人物の黒井城荻野直正さえ登場しないのでは香良合戦など関係ない。戦闘で負傷した直正が家臣に背負われ遁れた峠が「勝坂」なので少しは関心をもたれているようす?。
絹山北砦(西・東)間の堀底道?

県道7号線から幸世郵便局前の[丹波市立大師の杜ホール]案内板を見て右折:直進すると変則三叉路?があり手前を左折すると伊佐口へ、林道に入っていくような正面は香良、右折すると「勝坂」の案内板をみる。この絹山地区入口となる分岐の道脇直ぐ上にある絹山北砦(仮称)からは主戦場:伊佐口の地蔵が端・陣道ヶ原を望む。絹山地区南の丘陵裾に大師の杜ホールと丹波市 氷上斎場があり南から東側に流れ落ちる丘陵尾根上に高谷砦(仮称)がある。
絹山北砦(東)の主曲輪

荻野直正が「勝坂」より遁れる際・砦は援護に廻ったのでしょうか?。更に「絹山北砦」から出撃して東の山裾沿いに香良地区へ進めば正面に香良西城と対峙する位置の丘陵先端部に香良南砦(仮称)がある。赤井氏一族が奇襲攻撃の際に臨戦急造したものか。香良南砦は後日追加)合戦場となった加和良神社の南(陣道ヶ原)一帯は北方からは 井階山山系裾を南へ流れ出る伊佐谷川・東方は鷹取
絹山北砦(東)の堀底道?

・五台山から独鈷滝・岩滝寺からの香良谷川に挾まれた中洲状の位置にあり、伏流の香良谷川が此処:加古川近く(伊佐口)で湧き出してくる。「陣道ヶ原の合戦場」を挟んで便宜上!?:伊佐口・香良に芦田・足立軍、南の絹山や北由良に荻野・赤井軍が往時は沼地・泥田状態”の香良谷川を挾んで着陣し対峙したと考えたい。絹山地区の北東末端部の「絹山北砦」から香良地区へは未だ伏流で水量の殆どない香良谷川沿いに無理なく?侵攻は可能だが
高谷砦は正面:白い屋根上の丘陵:尾根筋は北由良間(桟敷-勝坂)を隔てる

敵陣まで近過ぎて少し無理があるかも?知れない。 南背後の北油良(春日町からは牛河内や由良坂…等から峠を越えれば南由良や桟敷に通じ…北由良・最奥の安養寺一帯は赤井・荻野方の勢力下?)に布陣し「勝坂」から絹山側に侵攻した合戦前夜臨戦の砦を築いたものと思える。赤井・荻野勢にとって北由良側の陣なら「勝坂」や牛河内坂を越えての奇襲戦法が功を奏せば絹山に陣を敷くことは可能と思われる。香良合戦の起因は前年の下克上(荻野直正(朝日城主)が
高谷砦(北西尾根先端部の曲輪下段にも3曲輪)

叔父の荻野秋清(黒井城主)を刺殺した)にあるが要因は既に燻り続けていた。細川二流(細川氏綱VS晴元)に分かれ対立し氏綱に一味する丹波守護代(三好氏家臣:内藤宗勝)は三好長慶に従い丹波へ出陣。足立・芦田氏・荻野秋清は丹波守護代に従い晴元との対立が激化すると八上城の波多野氏(長慶と姻戚関係にある)や赤井時家(直正の父:赤井家頭領)が晴元に付く。八上城と黒井城攻略を狙う三好・松永・内藤ら長慶党のとって赤井一族を討ってほしいと足立(権太兵衛)基則(山垣城・岩本城)・芦田(目留)光遠(沼城)の要請は好機。黒井城攻略に三好長慶党(松永久秀・内藤氏ら)の大軍が
高谷砦(北西尾根の段曲輪(古墳群!?)

香良を本拠に集結し足立・芦田氏連合軍が合流。大軍に向かい正攻法では勝ち目のない赤井・荻野一族にとって唯一手段の奇襲戦法により戦いが始まったものか?。足立・芦田連合軍には三好軍が・赤井・荻野一族には霧山城の西波多野氏や八上波多野氏が加勢したとも?また天然の要害となる香良城が 本拠地であったような…?。しかし実際はどうだったか?:此の合戦時に松永・内藤氏ら長慶党が丹波に入ったか?虚像とも思える霧山城と西波多野氏の存在や八上波多野氏らの救援があったかも不詳だが、赤井・荻野家を二分する細川家内紛と黒井城主:荻野秋清が刺殺された翌年を考慮すれば起因が
高谷砦(北西尾根の段曲輪群の間から落ちる竪堀?

単に細川家の代理戦争だけと言い切れない。ただ双方に大きな犠牲を払いながら得ることのなかった「丹波戦国史」に残る激戦に壊滅状態となった足立・芦田氏は直正に服した…が荻野直正の兄:赤井家清は深傷がもとで弘治3年死亡:芦田光遠も討死。足立基則は赤井・荻野一族の傘下に入るを拒否し足立一族から離反・:光秀の黒井城攻略に際しては斉藤利三配下にいて本能寺にも参軍している。絹山北砦(仮称) は比高僅か10-20m程に数段の小曲輪を置く単郭が130mと145m程に二ヶ所:二曲輪あってそれぞれ東側麓を南北を堀底道で抜ける。
高谷砦(北西尾根最高所の曲輪から北東尾根にも段曲輪

南側は林の中の広い平坦地形が絹山地区集落との間の藪中に隠れている。「勝坂」を絹山に降りてきて直ぐ正面敵地から 兵の動きも見えない位置にあり相当数の赤井・荻野勢が集結し待機なり待避出来る。二郭其れぞれ二ヶ所の堀底道(山道?)を北に抜ければ香良南西部の入口。泥田地帯を避け近場:香良へ奇襲をかけるに絶好地。高谷砦(仮称) は180m程:絹山北砦の北・市立大師の杜ホールと市の氷上斎場の東の丘陵部に遺る高谷(こうだに)古墳群の墳丘・墳頂部を曲輪として利用しているよう。山上部の中規模円墳(20x20m)墳頂を削平した主曲輪?から北・北東の二方向の尾根上に遺る古墳群?を段曲輪として構成されているようだ。最上の主曲輪?から南への尾根続きにも鞍部に土橋状・登り返しの山上にも古墳(曲輪段?)があるようだ。北尾根部は連続する段曲輪群の上部に一条竪堀らしい溝があり 山上部の中規模円墳(20x20m)墳頂を削平した主曲輪?から北・北東の二方向の尾根上に遺る古墳群?を段曲輪として
高谷砦(北東尾根最下段の塹壕?・土塁と石積!?

構成されているようだ。最上位の主曲輪?から南への尾根続きにも鞍部に土橋状・登り返しの山上にも古墳(曲輪段?)があるようだ。北尾根部は連続する段曲輪群の上部に一条竪堀らしい溝があり先端部の曲輪・其の下段にある 二曲輪が砦として手が入っているよう。北東尾根先端には塹壕風の溝が掘られ・左端に補強石積?もあって下方からの備えか?赤井・荻野勢が北油良に陣を敷き「勝坂」から絹山地区に侵攻して奇襲・その際:臨戦的に二城砦を築いた物か?”城郭参考地”として採りあげる。


絹山砦(仮称)
 絹山砦150m  丹波市氷上町絹山

加古川沿いに北上するR175号線は柏原川と高谷川が合流する穂壷城北麓を抜けてR176号線(多田バイパス)が合流する「稲継」交差点に向かう。正面の丘陵上に横田城がある城山トンネルを抜けると黒井川を渡り春日町黒井盆地最南口に出る。東西幅700m程の黒井盆地の最狭口で
絹山砦全景

東側丘陵(向山連山)南西麓に日本最低谷中分水界「水分れ」がある。今抜けてきたトンエル上の横田城から北方に霧山城・東へ下った天王坂から五台山へ続く丘陵部”五台の径”は分水界尾根ルートでもある。分水界ルートから外れる霧山の北西先端部が天王坂を下ってくる県道285号が県道7号と「桟敷」で交差する。桟敷は東方の愛宕山・鷹取山(山東は黒井側)裾へ延びる由良地区(南由良・北由良)への入口。
主曲輪から北斜面だけに5-6段の小曲輪が下方に並ぶ

「桟敷」の由良荘入口北方には稲荷社から勝坂に至る丘陵尾根が横たわるが城砦遺構を発見出来なかった…が此の尾根筋北麓一帯が香良谷。通説では細川家内紛の代理戦争(氏綱方に芦田・足立一族に三好長慶・松永久秀等が助力・細川晴元方の赤井・荻野一族が香良谷に激突した合戦とされているのだが!。香良合戦では牛河内坂を越え侵攻する赤井・荻野直正方勢力下にあった由良荘の南由良から北油良最奥の安養寺に至り
稲妻上りの激急斜面に此れが参道!?

「勝坂」を越えて合戦場となった香良地区内の絹山に抜けたものか?。由良庄には赤井方の陣城北由良城があり「勝坂」を越えた香良荘の南側:絹山にも直前の足立氏・芦田氏連合軍の砦群と対峙する赤井・荻野直正方の最前線城砦群:香良南砦を本陣とする急拵えの絹山北砦・高谷砦、一つ最南西に位置する絹山砦を加え香良谷の南側を横一線に並ぶ。
直前まで激登りで虎口を主曲輪(祠を祀る)に入る

絹山砦は県道7号線沿い「桟敷」を北へ約1Km地点に大塚病院と認定こども園があり其の背後に迫る低丘陵上にあった。県道の北400m程先に幸世郵便局があり「丹波市立大師の杜ホール」のサインボードを見て右折:直進すると絹山地区入口となる分岐の変則三叉路?の道脇直ぐ上に絹山北砦(仮称)があり主戦場:伊佐口の地蔵が端・陣道ヶ原を望む。
小曲輪群先端の堀切・外土塁

右折すると目の前に「勝坂」の案内板をみる。絹山地区南の丘陵裾に大師の杜ホールと丹波市氷上斎場があり南から東側に流れ落ちる丘陵尾根上に高谷砦(仮称)がある。絹山・香良地区一帯が香良合戦主戦場で芦田・足立連合が香良西砦から香良谷北側の加和良神社・陣道ヶ原(往時は湿地帯)側に布陣して対峙した。絹山砦の城域へは極狭く小さな南側からの尾根:荒れた露岩混じりの激急斜面を掘り込んだ鋭角な連続折れの溝状を
外土塁を囲むようなU字状竪堀

山上の祠に向かうが一般参道として普通に立って歩ける限度を超えている…。往時の登城ルートか?。最後に幅3m程の虎口状から祠を祀る広い平坦地に祠(愛宕社か?)を祀る山上曲輪に入る。幅狭い西端の北斜面だけに5-6段の曲輪が並ぶだけだが北先端部のU字形堀切が病院とシルバーホーム施設の二方向へと激急斜面に竪堀となって落ちる。先端部は施設拡張造成後の崖状藪?に消え踏込めず未確認。


タテガヘ城
 城山 Ca330m  丹波市市島町白毫寺

丹波比叡神池寺と並ぶ天台宗の名刹:五大山白毫寺(天台宗 本尊:薬師瑠璃光如来)は文武天皇の慶雲2年(705)法道仙人開山による創建を伝え丹波七福神(布袋尊)・丹波古刹十五ヶ寺霊場の第10番。太鼓橋と白毫寺九尺藤(嘗ては個人宅庭の藤だった筈?だが)今では「白毫寺の九尺藤」として境内庭園に拡大?され
中央左先鋒(断崖)の陥虎からタテガヘ

県下でも最大規模の藤園となり花のスポットとして有名になっている?…。 なお丹波志…等に白毫寺の山号:五台山は昭和に入って時期不知だが五大山に改称されている。隆盛期には堂宇九十三坊を擁する(白毫寺は其の総称で本坊は圓照院)。まだ寺を訪ねる人も少なかったが「?何とかフジは何処にあるのか?…」と聞かれたこともあった…。
白毫寺サブルートから陥虎ータテガヘ城への中央稜

白毫寺へは五台山ー鷹取山(丹波鑓)ー愛宕山や天王坂ー五大山を経由する登山ルート (ページTopを参照)・紅葉の時期に訪れたことがある。五台山も五大山も特定の山を指すのではなく 中国唐の霊場:五台山に見立てた”東壌(東条山は一山ににして両峰あり…白毫寺東城と白毫寺愛宕権現を祀る明智軍の陣城の所か?)・
大堀切と主郭東面切岸

西南の方に五軸ヶ嶽・西に当たって陥虎という険山(タテガヘ城の出郭!)此の山に続きタテガへという城山の古跡・少し北に白砂・北に天神峰”があり天台宗修法として回峰行が成されていたものか?。丹波志に「陥虎という嶮山あり此の山に続き”タテガヘ”という城山の古跡あり…少し北に白砂という山あり」…と。「氷上郡志」にも永禄年中:荻野直正の帰依もあって背後の山に赤井氏の支城があった…と。白毫寺は永禄年中:黒井城主:荻野直正の帰依もあって
低段差の主曲輪北には幅広の竪堀が落ちる!

赤井・荻野氏一族!の信仰も厚く庇護を受け白毫寺衆徒を撫育(大切に育てる!)し黒井城搦め手口を正面にする位置にあり防禦・守備されたものか!?。そのためもあってか天正の「丹波攻略」に際し兵火で焼失したが人々の厚い信仰に支えられて天正年中に再興され現在に至る…と。「丹波志」の古城の部に見当たらない?が寺社の部や「氷上郡志」にも背後の山に赤井氏の支城があった!!
主曲輪中央部北面に落ちる竪堀!

…と云うが旧氷上郡志や県遺跡分布調査報告…等に城砦の記録を知らない。山城探索にと白毫寺背後の丘陵尾根を伝う”五台の径”のサブルートを辿り、山道に入る手前の赤松貞範の供養塔側からスタート。黒井城北背後の搦め手を直接:赤井・荻野方の白毫寺衆徒…等によって築城!され黒井城の盾となる衆徒を兵とした「タテガヘ」…?または盾となる塀(兵)…?の意味か。境内:薬師堂裏の熊野神社は白毫寺の守護神として祀られる!、
主曲輪東南上部の切岸

:熊野権現は熊野本宮・速玉・那智の熊野三山権現が祀られる。白毫寺一帯(主に五大山周辺か?)の銅鉱採掘に当たった熊野地方の豪族橋爪一族が熊野三山から祭神を勧奨して祀ったのが熊野神社。山師として山中の水利状況をよく知る橋爪一族の老女から黒井城の水の手を聞き出して・水の手を止められ落城した黒井城:赤井方の残党により裏切り者として橋爪一族は処刑された(黒井城の水の手と橋爪一族)この熊野神社前の橋爪一族供養の宝篋印塔以外
主郭西端下部の石列・左上に竪堀状が見える

にも橋爪株の血筋に充る縁者により供養の祠が数ヶ所建立されている。本堂上の熊野権現社(白毫寺の鎮守とされる!?)前を抜けた西裏手から登山道として整備されていた”五台の径”のサブルートを辿る。「エルムいちじま」は閉園し「アスコ・ザ・パークTANBA(市島町与戸)」が代わって運営しているメインルートが尾根上で合流する。白毫寺から尾根筋に出て五大山登山コースのメインルート(芝生広場)に合流して約50m程で大堀切を見る。メインルートは尾根筋を避け土橋状・竪掘状と城域の北裾を捲いて
出曲輪陥虎!?絶壁上の尾根筋にある二重堀切(外側)

進み城域を抜けた尾根続きにも(芝生公園)からの登山ルートに出会う。 単郭だが7-80mに及ぶ曲輪の中程には幅広い竪堀状が登山道まで落ちるところ僅かに盛り上がりを見せるのが主曲輪。西端切岸下部にも長い竪掘状があり曲輪西南端に土留めの石積がある。大堀切側の曲輪東南から延びる尾根筋の先端部が陥虎?という険山…。尾根上に数段の曲輪と二重堀切、其処から先端へ緩斜面だが露岩・露盤帯となり崖状先端からは真下に「白毫寺藤園」の
タテガヘ城出郭(陥虎)の二重堀切(内側)

青い屋根部が 右手(西)に入り込む谷には砂防堰堤が見える。丹波志には「此の山に続きタテガへ…」とあるように「タテガヘ城」への最短登城ルートは藤園を抜け此の谷筋から二重堀切付近を目指すのが良さそう…。主郭周囲の下部に小曲輪・帯曲輪・犬走り等を一切見ないが段状に思えるのは橋爪一族による鉱脈の試掘跡だろうか?。
 丹波霧の里HOME

inserted by FC2 system